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本を読むということ

アリストテレスの『形而上学』の冒頭は、

人はみな生まれながらにして知ることを欲する(πάντες ἄνθρωποι τοῦ εἰδέναι ὀρέγονται φύσει / All men by nature desire to know)。

という文章で始まる。人が何かを知るという一つの手段として、本を読むということが有益であるということに対する反論はないのではかろうか?本を読むということは何か知りたくてたまらない欲求を解消して、その向こう側に到達するための一つの手引きだ。しかし、本を読むという体験について、あるいは本を読むことが何でそもそも意味があるのかと問われ、今まで返答に窮したことがある。偶然、Punksにして『くっすん大黒』、『きれぎれ』、『告白』等の小説をリリースしている町田康のインタビューを読んでいたら、興味深い読書の体験について語っていた。これを読んで、これまで漠然としていた本を読むという行為について、もやもやした靄が晴れたかのような気分にさせられました。町田康の本を読むという体験を先ずは

  • 本を読むという行為は日常の現実世界から一歩退き、脱落するということ。
  • 別の次元に行く体験

という契機に解釈する。なおかつ、本を読んでいない40代、50代の人々について、その世代の人々が本を読まないのは忙しくて”脱落”している暇=時間がない。人は現実的に生活する糧を得るための仕事と本を読むという時間を同時に体験することはできないから、会社で生き残るためには今の現実的な時間から一人、降りて本を読むという時間には降りて行けないのだ、と手際よく分析してみせ、人はこれらの二つの時間を同時に体験できないのだ、ということを述べている。考えてみれば、大学院に残っている友人たちを見回しても、小説ではないけれども、ドイツ語やフランス語などの原書を読み、各国の二次文献を読み漁っている時間と現実の世界に生きるための労働という時間はまず両立しえない。また、研究者用の専門的な本だけではなく、早晩から深夜まで働いた後に、くつろぎながらビールを飲みつつ、小説等の本を読む余暇というものはなかなか日本の社会では難しいように思える。満員電車に揺られながら、一体誰が本を読もうという気になるのだろうか?

さらに、

  • 小説は現実とは異なったもう一つの現実であり
  • 二日酔いのような状態で再度、現実に帰って行かなければならない

ことが読書なのだと解釈してみせる。読書は現実からの逃避ではなく、小説は現実と断絶したものでも決してない。小説がいかにして書かれるのかと言えば、現実への目配せしつつ書かれている。小説には現実につながる回路があり、現実とは別のものではなく、もう一つの現実なのだ。だから、バランスをとりながら二つの時間を持つということの方がはるかに物事を見渡せる。

読書というのは、もっと深い体験だと思います。瞬間的な知識ではなくて、じわじわと嫌な形で体にまわって、二日酔いのようになった状態でもう一度、現実に帰って行かねばならない。それが読書だと思います。

なるほど、言い得て妙なことだ。ただ、二日酔いのまま現実の世界に戻ると結構、辛いものがあるのも事実なんですけどね。たまに、なんでこんなに飲んでしまったんだと後悔する日もあるので、現実を上手く切り抜けるためには、読書をするのもほどほどが一番肝要なんだろう。


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