便利なNetflixでポニョを借りようと思ったが、人気作らしく借りれられないので、未見の『ハウルの動く城』を借りてみるが、なにやら腑に落ちないことが多くある。ソフィーが作中若返ったり、年老いたり。原作がダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作とした小説なこともあり一切の物語の背景を映画では描写していないがために分かりにくい。詳細は「ハウルの動く城の謎についての分析と解釈」を参照。
ソフィーは荒地の魔女に老婆になる魔法をかけられらた後、魔法を解けた明確な場面がない。それにも関わらず、劇中、ソフィーが寝ていたときには若返ったり、深夜、傷ついたハウルの部屋に若返ったまま赴いたり、ハウルにプレゼントされた新しい住処の内の一つである野外には綺麗な花畑に足を踏み入れると若返って行ったりする。サリマンに出会ったとき、ソフィーの顔が若返り、なんて若い母親なのねと言われたりしてしまう。しかし、ネガティブな言葉を発すると腰の折れ曲がった呪いの老婆の姿に戻ってしまう。ということはすでにハウルが呪いをある程度まで解除していたという憶測するしかない。ソフィーがハウルの城に辿り着いた翌日の朝、ハウルがソフィーのポケットの中に入っていた荒地の魔女による呪いの札みたたいなものを掌で抹消したときなのだろうか。ハウルはこの呪いは強力だと言う。荒地の魔女は呪いの解き方を知らないと言う。ということは最終的なこの呪いそのものは自分で乗り越えなくてはいけないものだということなのだろうか。
荒地の魔女がカルシファーが隠し持っていたハウルの心臓を見つけ、火がついた心臓を持つ荒地の魔女を救うためにソフィーがカルシファーに水をかけたがために動く城が崩壊する。みんなと放れ離れになったソフィーは指輪が指し示すドアを犬のヒーンとかいくぐりハウルの過去の中に踏み込む。時間の幽界が歪み落ち、現実の世界(過去からみた未来)へ戻る最中、「わたしは、ソフィー。待ってて、わたし、きっと行くから、未来で待ってて!」と過去の中のハウルに叫ぶ。現実に戻ってくると、そこには戦闘で傷ついた異界の姿をしたハウルが待っている。「ごめんね、私、ぐずだから。ハウルはずっーと待っててくれたのに。」この後、ソフィーの姿が若返ってくる。どうやら、この時にソフィーは老婆のままでいることは自己暗示のせいだということを明確に直感したようだ。映画を観ていると、「ごめんね、私、ぐずだから。ハウルはずっーと待っててくれたのに。」という言葉に違和感があった。前後にも呪いについても何もコンテクストで言及が無いからだ。ソフィーが自らの思い込みによって老婆のままでいたということならば、この言葉の意味も分かる。
その他にも謎が多くあるが、小説の中のソフィーは生命を吹き込む魔法が使えるというシナリオだといことだ。それ故に、映画の中でも最後にソフィーはカルシファーとハウルの命を言霊によって救うことができたということらしい。宮崎駿の言霊に対する思いを知ると物語も一層楽しくなるのかも。
言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することは取り返しのつかない重さを持っている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「帰りたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処にも行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産みつづけるかの道しかなくなる。逆に、「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。今日、言葉はかぎりなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受けとられているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今でも真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。
宮崎駿 「不思議の町の千尋」
漫画の『風の谷のナウシカ』でも巨神兵にオーマと名前を与えた途端、知的レベルが上がり、光輪を帯びし、調停者にして裁定者になっていたな。