偶然、友人のゴスペルのイベントに誘われて、ハレームへゴスペルを聞きに行ってみた。クリスマスのイベントや旅行の際にジャマイカで偶然に訪れたイベントでのゴスペルに引き続き、今回で3、4回目ぐらいだろうか。基本的にゴスペルは奴隷としてアメリカ大陸に連行されたアフリカ人が生活の苦難の中で救いを与えるゴスペ(福音)に出会い、それを発展させる中でによって一つの音楽として発展し、神に彼ら独自の賛美をささげるようになった。この発展解消の中でキリスト教の教会音楽がアフリカ特有の跳躍するリズムと融合して神への感謝、讃歌というスピリチュアルというゴスペルの音楽が生まれたわけだ。
毎度思うのが、基本的にゴスペルを歌う人は基本的にみな楽しそうだ。ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats)がRejoice!と詩に読んでいたようにゴスペルを指導する人もRejoice!ということを頻繁に叫ぶ。彼(神)に感謝するという旨を繰り返すが、その本質はその場を他者とともに共感し共有する時間というものが喜びの源泉なのだと思う。基本的に他者と共感あるいは気を許せるものは共通の規範が必要だ。それが振る舞いであれ、信念であれ、宗教であれ共に許せるものあるいは受け入れるものでなければ喜びあるいは楽しみを分ち合うことはできない。何かから逃げ出すために宗教、基盤となるものへの逃避をかつての友達はそれは安易な逃亡であり、哲学とは相容れないものだと語った。だけれど、哲学も他者との共感、対話となる場を希求しているものであれば自ずから考えるという度合いの程度、真摯な姿勢は別としても求めるところはどこかで同じものなかと常々思う。生への眼差しへの変換を経て生の生成の場の現場へと引き戻すときにも神への超越は遮断されるが、そこから神への超越はどのように一体語れるのだろうか。